2008年 11月号 一隅を照らす 寺内町の富栄戎(とみさかえびす) (富田林市富田林町) 富田林の寺内町は、この「近くへ行きたい」で何度か紹介したことがありますが、何度行っていても見過ごしていることが多いものです。自宅で何気なく案内図を見ていて、地図の隅に「富栄戎」を見つけ、どうしても見たくなり、愛車(ちゃりんこ)でさっそく出かけてみました。
寺内町は重要文化財の旧杉山家をはじめ多くの旧家が残り、国の重要伝統的建造物群保存地区の指定も平成9年に受けて、町ぐるみで保存に取り組んでいます。うろうろしていると「家の内部を見ませんか。写真撮影もできます」と、声をかけられることもあります。
杉山家などの大きく立派な屋敷につい目が行ってしまい、隅っこにある戎さんにはなかなか気づかないもので、てくてく歩いていくと小さな祠に出合いました。
見栄えがし、刺激のあるものに心を奪われ、小さなものは見過ごしやすい時代ですが、寺内町が商売で栄えていた頃はきっと盛大な戎祭が行われていたはずです。今が最高と浮かれているとすぐにすたれることを、歴史から学ぶことも大切です。外観だけでなく内面を見る心の目、見かけの価値にだまされない、一隅を照らす心を忘れないで…。
小さいながらも1月の9〜11日には立派に戎祭があり、福娘も登場するそうです。
ところで、この戎さんは七福神の1人で神とついていますが、実際は仏に属します。“七人七色”で個性的、とてもまとまりそうにないのに、しっかりまとまっている個性集団。本当に良い集団であるかどうかは、属する人の個性が強いほど良く、個性がないのは押しつけ集団で団結力はありません。一隅を照らす心があればこそ、小さなことに目くじらを立てず、許し合えるのが戎さんなのです。
| 2008年 9月号 無価値の価値 浜寺公園駅と諏訪ノ森駅の駅舎 (堺市西区) 前回の沢庵和尚の話で、読者の方から問い合わせのあった「日日是好日(にちにちこれこうにち)」は禅語と呼ばれ、中国の古典、雲門広録などに出てくる言葉です。禅語は沢山あるのですが、あちこちからの引用が多く、今の時代なら著作権侵害でしょうが、著作権はごく最近の考えで、昔は自由だったようです。禅の自由な精神は理屈をぬきに良いものは何でも取り込むので、皆さんも自由に取り入れてください。
南海本線の浜寺公園と諏訪ノ森駅の駅舎は国の登録有形文化財に登録されています。浜寺は1907年(明治40年)、諏訪ノ森は1919年(大正8年)の建築なのですが、南海本線の高架工事に伴い、どうするのか検討されていました。堺市庁議で保存活用が決定され、移築工事が2009年度に始まるそうなので、今の間に現存を見ておきましょう。ところで、文化財や芸術の価値って何でしょうか。見物して浜寺の方は文化財、芸術って思えましたが、諏訪ノ森については、「え・・・、これが文化財」なんて私には思えました。
わざわざ美術館や博物館へ行くほどでもないし、本もテレビもそっち方面は興味がない。でも、素人だからこそ分かる無価値の価値もあるはずです。どんな国宝でも、その人にとって無価値ならつまらないし、社会的に無価値でも自分が良いと思えばすばらしい。
近くへ行きたい「日日是好日」。その日、その日のあなたの心と自由な精神で感じてほしいのです。ほとんどの史跡は発掘されても記録をとれば廃棄の運命にあり、今回のように国登録のおかげもあり残るのはごくまれです。諏訪ノ森駅を「え・・・、これが文化財」と表現しましたが、貴重な遺産であることを誤解のないよう付け加えておきます。

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2008年 7月号 主人公は自分だ! 元祖沢庵漬け「南宗寺」 (堺市堺区南旅籠町) 堺の南宗寺を訪れると案内板に江戸時代初期の禅僧で、沢庵宗彭(たくあんそうほう)という人物が紹介されています。「たくあん」から単純な発想で沢庵漬けで、まさか関係ないと思っていたら、三代将軍徳川家光が沢庵に帰依(きえ)して、品川の東海寺で参禅したときに沢庵の出す大根のかす漬けをたいへん好み、家光が沢庵漬けと名付けたそうです。
沢庵が南宗寺の住職をしていたころ、京都の大徳寺住持になるよう天皇の勅命(ちょくめい)を受けますが、権威になびかず三日で南宗寺に帰ってしまいました。さらに徳川幕府が強化され、大徳寺の住職になるのに幕府の許可が必要と定められたのに反対して流罪を受けます。3年後には赦免されますが、将軍にもこびないで、沢庵漬けでもてなすだけだったそうです。
弟子に印可(いんか)を与えることもせず、沢庵の法は一代で絶えます。葬式はするな、墓も位牌もつくらない、法事もしてはいけないと言い残し、1645年に73歳でこの世を去りました。
沢庵が求めたものは、純禅で心の自由、精神の自由でした。あくまで主人公は自分。他人や社会が決める勝手な評価や価値、権威など関係なしという感じです。だから現状に嘆くこともなく、「日日是好日(にちにちこれこうにち)」。
相手が天下の将軍でも、主人公は自分。そんな沢庵の気高さこそが、本当の勇気です。あきらめずに沢庵でもかじって、人生強気にいきましょう。

南宗寺・甘露門 |
2008年 5月号 中道を行く
「アウトサイダーアート」 仏教誕生「龍雲寺」 (富田林市加田(かだ)) 龍雲寺は寺伝によると、もとは河内長野市石見川の真言宗の古刹(こさつ)であったのを、1724(享保9)年、狭山藩5代藩主・北条氏朝(うじとも)の援助でこの地に移されたものだそうで、河内西国霊場第4番札所であり、堺市三原区今井にある法雲寺の末寺にあたります。ここは花の寺でもあり、春先の白梅や水仙、夏の蓮は素晴らしいので、見物させていただきましょう。
禅宗の寺なので、本堂前にはどっしりと布袋さんがいて、境内では釈迦の生涯を実感できるようになっています。仏教の「中道」の教えでは、釈迦は断食の厳しい修業を6年間も続けたものの何も得られず、体調を調えてから菩提樹の下で瞑想をして成道(じょうどう)(悟り)したと伝えられています。あまりガチガチになってもダメで、ゆったり構えて静かに座禅するような心で、欲張らず、怠けず歩めということです。
「アウトサイダーアート」とは、正規の美術や芸術教育を受けていない人の作品のことで、心の向くままうまいもへたも順位づけも何もない無価値の価値。中道を行く、芸術ではない芸術で、最近各国で注目されつつあるそうです。私・高野のアウトサイダーを自ら「DARK(ダーク)」と宣言し、ひっそりとたったひとりであてもなく、芸術的に甘いと冷ややかな言葉を浴びせられながらも活動しています。
マラソンの高橋尚子選手が、東京、大阪、名古屋の大会を続けて走ると宣言しました。トップアスリートの常識ではありえないことで、専門家の間では無謀とあきれられていますが、きっと釈迦も上からはにらまれ続けたはず。壁にぶつかっている人へ「中道を行く」。真に新しいことは必ず中傷を受けるものです。
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2008年 3月号 自己発見の旅 棚田見物 (南河内郡千早赤阪村) 「近くへ行きたい」ということで、みなさんの住んでいる町をうろうろさせていただいており、読者の方からの声で探し歩くことも多いのですが、そういえば千早赤阪方面は紹介していないかも・・・で、日本の棚田百選にも選ばれた千早赤阪の棚田を紹介しておきましょう。
この棚田、下赤阪城を見物に行ったときにたまたま見つけ、これはすごいと思っていたら、すでに全国に知られた場所だったと後で知りました。
千早赤阪というば、「太平記」の楠木正成で、鎌倉幕府の軍勢を相手に千早城に立てこもり、100日間戦い続けて幕府興亡の情勢をつくったとされています。千早赤阪村は他市との合併が検討されていますが、地元の人々は歴史的に価値のある場所や地名を現状のまま守り続けたいという意志が強いと、史跡を見物していて、お寺の住職の方から伺いました。
今の時代、開発は場の姿や風景を一時に変えてしまいます。昔のガイドブックを参考にしていると、まったく何もないなんてこともたびたびあるのが現状です。いっそ千早赤阪全部を歴史的景観のあるところとして、世界遺産に登録してしまおう、なんて大胆な発想をしてしまいますが、そのくらいの覚悟と意志を持って守ってきた人がいるのは、決して見えないし、なかなか理解もされないけれど、事実です。
「風景を見て、心は見ず」そんな自分になっていないでしょうか。棚田だけに限らず、どこにでも百選や世界遺産その他、社会的評価に関係なく価値は存在しているはずです。
まだまだ寒い時期は続きますが、少し暖かくなってきたら、ぜひ千早赤阪の風景を眺めて、あなただけのとっておきの場所を発見しましょう。価値とは与えられるものではなく、自己が創造するものであり、文化財や文化も自分たちで築くものです。

千早赤阪村の棚田 |
2008年 1月号 名探偵から「読者への挑戦」 浅香山カッパ伝説 (堺市堺区浅香山町)
読者の方から情報を頂いてもなかなか出かけられないことも多いのですが、今回はJR浅香駅前に不思議な石碑があって、大和川にも何やら祠があるということでやってきました。人々が通り過ぎる駅前のフェンスの中に「儀澤明神」と刻まれた石碑が残されています。よしざわ(文字の上に・・・・をつける)、
と読むのだろうか?などと思いながら大和川の方へ向かって川も探しましたが、探し方が悪かったのか、地蔵さんも祠も見つかりませんでした。その後、浅香山稲荷神社の方に行ってみると、境内のあちこち、裏手にも多くの明神や大神の石碑があり、駅前はその中の一つではないかと私は推理しました。
浅香は推古天皇の時、香りのよい木が流れついたので、「香り浅からぬ」ということで浅香の浦と呼ばれるようになったという伝説が残り、稲荷さんのある付近は昔は狐塚と呼ばれており、非常に寂しい所だったので、カッパ伝説も調べているうちに出てきました。江戸時代に大和川の付け替えが行われたとき、工事がなかなか前へ進まないのはこの狐塚の狐の崇りじゃないかで、塚を避けて川をつけ、社殿を新しく造り直したら工事がうまくいくようになったそうです。その時の土砂を積み上げたのが浅香山で、今は平坦になってどこにあったのかも分からなくなっていますが、新しくできた山を信仰の対象とし、人々が石碑を建てたのかもしれません。ほとんどの石碑は開発により稲荷さんの境内に移されたが、謎の石碑はたまたま残されたものである。
さて、あなたはどんな推理をしますか。読者への挑戦は、エラリー・クイーンの小説からもらったものですが、裁判員制度も始まりますし、ぜひ独自の判断であなたの内なる心の真実を探してください。海外では推理小説なんてものは過去のものですが、日本人はなぜか推理好き、だから裁判員やれます。

本殿裏の石碑群 |
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