
松原市上田/高野 剛さん
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「伝説の美女」
2004年7月号
はじまりのはじまり
「近くへ行きたい」もずいぶん長くやっていますが、本当にこの地域には史跡や伝説がいっぱいあり恵まれています。とは言えかなりの部分は開発で破壊され、景気が回復すれば開発も進むので複雑な思いです。
大阪市内の史跡を巡っていると、石碑だけの場合が多く、それも場所が変わってしまっていたり、うろうろしていると怪しまれるし・・・。
史跡巡りは、やっぱりゆったりした気持ちで訪ねてみたいものです。
直木賞作家・京極夏彦の小説「今昔続百鬼」に登場する主人公、妖怪研究家の多々良勝五郎大先生のように、仕事はフィールドワーク、野山をひたすら歩くのが自分にはぴったりのようです。警察に犯人扱いされるところなど、なるほどなるほどとうなずいてしまうものです。
小説のように、まさか死体に遭遇したりしないことを願いながら頑張りたいと思います。(妖怪なら歓迎します)。
さて、「伝説の美女」では、アマテラスをはじめ、主に日本神話に登場する美女を史跡を巡りながら独断と偏見で紹介します。
日本神話は戦前に国史として戦争の道具とされ、現在の義務教育では学ぶことも少なくなりましたが、純粋に日本の古典を愛し、神話として学び楽しみたいと思います。
本能のままにふるまう神々の姿には、世界共通の要素も多くあり、ギリシャ神話に通じるところも多いです。
妖怪じみた話も楽しみのひとつ。
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「伝説の美女」@
2004年9月号
天照大神
(あまてらすおおみかみ)
堺市の栄橋町にる神明社は堺のお伊勢さんと呼ばれている神社で、神明といえばアマテラスを祀る神社と覚えておけば間違いありません。
天照大神は日本の神様の総まとめ役で、天皇家の祖神です。有名な天岩戸伝説にあるように光る神で、太陽神でもあり、その姿は美しいという形容を超えて、眩しく光り輝いていたのでしょう。
もちろん女神なのですが、折口信夫氏の学説によると、男神だった可能性があるようです。天照大神の別名はオオヒルメノムチであり、ヒルメとは日の妻、つまり男神アマテラスに仕える巫女だったことを指摘し、実際にアマテラスを古くから祀る神社には、男神だった形跡が残されているそうです。
いつの時代に女神となったのか、いつから天皇家の祖神になったのかなどは不明ですが、最近の研究では、伊勢にはもともと日神の聖所があり、これを大和朝廷が取り上げた説が有力です。
神明社では、大浜公園にある日本一低い一等三角点(標高6.8m)のある山、蘇鉄山の登山認定証が無料でいただけるので、事務所にひと声かけてみましょう。
日本では過去に推古天皇に始まり、10代8名の女性の天皇が誕生しており、中国では則天武后が有名ですが、正式に皇帝として認められておらず、古代朝鮮の新羅(しらぎ)では3代の女王がいます。日本の古代の謎のひとつとして、なぜ女性が最高位になれたのかを、男女公平の立場で改めて考察する必要もあるでしょう。
やはり、美貌こそが最高のミステリーなのではないでしょうか。
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「伝説の美女」A
2004年11月号
髪長比売
(かみながひめ)
応神天皇の時代に日向の国の髪長比売が美しいとお聞きになりました。まだ太子であられた仁徳天皇が難波津(なにわのつ)に船着きしている姿をご覧になり、容姿の立派さに感心され嫁とされたそうです。
水まんまんの依網(よさみ)の池の
堰の杭打ち男が杭を刺すように
乙女を心に占めているとは 知らなんだ
じゅん菜採り男がじゅん菜を採るように
乙女に手を延ばしていたとは 知らなんだ
ああ愚かなわしの心
今になると悔しいわい
−とはいうものの おめでとう
応神天皇が歌われ、結婚を祝った話が古事記に出てきます。
この歌に出てくる依網の池は、狭山池と同じように古代から実在した池らしく、300年前に付け替えられた大和川の川底となり、少し残っていた跡も埋め立てられ、現在は住吉区の大依網(おおよさみ)神社裏から大和川に向かう途中に石碑だけが残されています。神社は、きっと池の守り神的な役割を果たしていたのでは。
容姿美しき髪長比売を讃える歌に出てくる依網池なので、透き通る水をいっぱいに満たしていたような気がします。現在の風景からイメージするのは難しいのですが、もっともっと美しい町になることを願いながら、神社から大和川へ散策してみるのもいいでしょう。
ところで、仁徳天皇はその後、皇后・石の比売(いわのひめ)の嫉妬にもめげず、女性との交わりを重ねていくあたりは、神話の世界ならではの話であり(うらやましい)楽しみなところです。」

依網池のあった付近の大和川 |
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「伝説の美女」B
2005年1月号
伝説の歌人「石上露子」
(いそのかみつゆこ)
前編◆寺内町を訪ねて
小板橋(こいたばし)
ゆきずりのわが小板橋
しらしらとひと枝のうばら
いずこより流れか寄りし。
君まつと踏みし夕に
いひしらず沁みて匂ひき。
今はとて思い痛みて
君が名も夢も捨てむと
なげきつつ夕わたれば、
あゝうばら、あともとどめず、
小板橋ひとりゆらめく。
伝説の美女ということで神話的な美女を紹介してきましたが、今回は近世に生きながらにして伝説の歌人となった石上露子を紹介します。
石上露子(本名・杉山孝子、戸籍はタカ)は、明治15年(1882)〜昭和34年(1959)の人で、代々造り酒屋を営んだ富田林の豪商、杉山家の長女でした。
旧杉山家は国の重要文化財となり、富田林寺内町のシンボルとして公開(有料)されています。
小板橋は露子が公表した唯一の詩編であり、絶唱として大正8年(1919)発行の生田春月編「日本近代名詩集」に掲載。その後、長谷川時雨の「明治美人伝」などにも紹介され、現在は石上露子集として、松村緑が編集し中央公論社から発行されたものが、地元の本屋さんで復刻版として売られていました。
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「伝説の美女」C
2005年3月号
伝説の歌人「石上露子」
(いそのかみつゆこ)
後編◆高貴寺を訪ねて
石上露子(本名・杉山孝子、戸籍はタカ)は、明治15年(1882)〜昭和34年(1959)の人で、代々造り酒屋を営んだ富田林の豪商、杉山家の長女でした。
与謝野晶子を師として仰ぎ、鉄幹が主宰する「明星」に詩や短歌を発表しましたが、明治42年(1909)、26歳になっていた露子は、家督の責任もあり、父親の命ずるままに結婚します。当主となった婿に文学への理解はなく、生没年代さえ不明の時期もありました。
新5000円札の樋口一葉も、女性の作家というだけで多くの差別や偏見を受けたことでしょう。現在でもまだまだ根強い差別や偏見があるような気もし、調べているうちに人権について改めて考えることになりました。
晩年の露子は、与謝野晶子のすすめもあり、「明星」の後続誌「冬柏」に復帰しています。しかし2人の息子の死もあり、目立った活動はなく、ただひっそりと生涯を閉じました。墓所は杉山家の墓地とは別に、次男の好彦さんが愛したという、平石の高貴寺に2人の息子と一緒に眠っています。

石上露子の墓 |
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「伝説の美女」D
2005年5月号
「衣通姫」 (そとおりひめ)
@古事記編 藤井寺市・国府
日本の古典である古事記や日本書紀の中で、名前からだけでも美女だったと想像できるのは、コノハナノサクヤヒメと今回紹介する衣通姫でしょう。名前のソトオリは、肌の色艶が衣を通して光り輝くようであったからだそうです。しかし、絶世の美貌ゆえの悲劇はつきもので、その宿命から逃れることはできませんでした。古事記と書記で話の内容が違う物語は多く、衣通姫の伝説も例外ではありません。そこで、今回は古事記の内容を紹介しておきます。
允恭(いんぎょう)天皇の条に衣通姫は登場し、后の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の子の軽大郎女(かるのおおいらつめ)とされ、彼女は同母兄の木梨軽太子(きなしのかるのたいし)と愛し合うようになります。古代であっても同母兄妹姦はタブーだったため、二人は罪に問われて追放され、最後は心中するという、叶わぬ恋の悲しい物語です。
宮内庁により允恭天皇陵が定められていますが、現在の考古学的な判断によると、そのような天皇が実在したのかすら実証もなく、戦前の軍国主義時代のまま統治されています。開発により破壊されるよりは、これでいいのかもしれませんし、とりあえず理屈はぬきにして神話を楽しむのには必要な場所です。
允恭陵の陪塚とされる長持山古墳の石棺を見つめ、神話に浸ってみるのもいいでしょう。
よくよく考えてみると、現在史実とされていることも、明日には塗り変わる可能性があり、真実は地動説のように、みんなが馬鹿にしたことのほうがけっこう正しいものです。

長持山古墳の石棺 |
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「伝説の美女」E
2005年7月号
「衣通姫」 (そとおりひめ)
A日本書紀編 泉佐野市・上之郷
「やってきました」泉佐野市まで。近郊の史跡や伝説巡りのはずが、作者のわがままで、今回はどうしても掲載させていただきました。
地元の史跡案内書を見ていると、衣通姫(茅渟宮跡)(ちぬのみやあと)とあり、これは伝説の美女で肌の色艶が衣を通して光り輝くようであったとされる人(神)のことなので・・・。出かけてみると案内標識もあり、地元ではけっこう有名でした。小さな公園の奥に墓があるような感じで、よっぽど好きじゃないとわざわざ来ない気もしましたが、「百聞は一見にしかず」です。地元の人の話によると、祭りも行われているそうで、伝説の地は宮内庁ではなく、民衆によって守られていました。
さて、衣通姫は、書紀では允恭(いんぎょう)天皇の后・忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の妹とされ、天皇の寵愛を受けますが、皇后の嫉妬が激しく、都のあった大和から遠く隔てた河内(和泉)の茅渟に宮を造り、天皇は日根野の遊猟にかこつけて密会していたそうです。
この付近はまだまだ自然も多く残されており、伝説の地としては悪くない気がしました。大阪市内とかの場合、ラブホテル街の片隅に石碑があったりするし、芭蕉終焉の地の石碑は御堂筋の道路の分離帯の中にあり、「芭蕉は車にひかれて死んだ」などのジョークが飛び出すほどです。

茅渟宮跡 |
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