不思議ふるさと
「河内飛鳥」@
2003年7月号
はじめのはじめ
幻想の聖徳太子で河内飛鳥付近を度々訪ねるうちにこの場所が好きになりました。うろうろしながらメモをしていると、思っていたよりも多くの史跡があり、謎の部分も多く、まだまだ自然にも恵まれています。飛鳥という言葉の響きそのものが日本の歴史のような気がして、「河内飛鳥」としてまとめてみることにしました。
飛鳥といえば、奈良県の大和地方の飛鳥が一般的に広く知られており、大阪府南部地方の飛鳥は河内飛鳥、もしくは「近つ飛鳥」と区別して呼ばれています。
近つ飛鳥には、現在の大阪市付近にあったとされる古代の難波宮(なにわのみや)に近いという意味があり、大和の飛鳥はそれよりも遠いので「遠つ飛鳥」と呼んだと推定されています。
河内飛鳥の範囲をどこからどこまでと限定するのは難しく、それだけでも、論争になりそうですが、ここでは広義の河内飛鳥と考え、柏原市南部付近から太子町、羽曳野市、そして河南町から千早赤坂村北部までの地域としておきます。時代も古代から江戸時代までと広くとらえ、まずは河内飛鳥の中南部を主に紹介します。
ここだけの話 そんな言葉に
だまされつづけて夢を見る
謎めいたセリフは悪魔の囁き
ああ 古代が僕を呼んでいる
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不思議ふるさと
「河内飛鳥」A
2003年9月号
いわふね あめのいわや
磐船神社の天岩屋
河南町の平石にある磐船神社は、はるか昔ニギハヤヒノ命(みこと)という神が天から磐楠船(いわのくすふね)と呼ばれる飛行船に乗り、哮峰(たけるがみね)に天降(あまくだ)ったという伝説が残る場所です。
神社の背後にそびえる山が哮峰で、神の印である十種(とくさ)の神宝(かんだから)を携えていたと伝えられています。十種の神宝は死者をも蘇らせる力があるとされていますが、天皇の象徴とされる三種の神器と違い、実物はもちろん、その入れ物でさえ見た人はいない幻の神宝です。
そんな伝説にふさわしく神社には奇妙な形の石灯籠や磐船を連想する大きな岩などが、深い森の中に点在しています。
もちろん地元の人によって大切に守り伝えられてきたものなのですが、その中で私の心に残ったものは天岩屋です。天岩屋はアマテラス大御神(おおみかみ)が弟神であるスサノオの乱暴に怒り、自らその中に籠もってしまったという、あの有名な伝説で、各地に残されていますが、大阪では開発が進んで残っている場所は少ないようです。
神話は作り話なのかもしれませんが、ハリー・ポッターの物語のようにワクワクする不思議があります。そこには現代社会が忘れがちな夢と冒険が実在しています。
平石までのバスは本数が少ないので、北加納から1時間近く歩くことになりますが、高貴寺と合わせて訪ね、奥の院まで歩いてみることをおすすめします。
うつせみ
空蝉の遥かに遠き神話かな

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「河内飛鳥」B
2003年11月号
つぼい おおくす
壺井八幡宮の源氏の大楠
羽曳野市の壺井には天然記念物に指定され、樹齢千年ともいわれる大楠があります。
楠木の大木は神社などでは多く見られますが、ここのものはさらに大きく立派で、源氏の故郷として有名な壺井の地にふさわしく圧倒されます。
源氏といえば、1192年“いいくにつくろう鎌倉幕府”で学生の頃覚えたこともありますが、丸暗記だったので歴史的な背景については何も知らないままでした。
鎌倉に幕府を開いた源頼朝の先祖に当る頼信、頼義、義家の源氏三代がこの壺井の地におり、河内源氏といわれていました。
東北地方の戦いである前九年の役では、頼義は子の義家とともに出陣し名をあげることになります。
この役が平定後の1064年に京都の石清水八幡宮から神霊を勧請し、源氏の守護人として祀ったのが壺井八幡宮のはじまりです。
義家は八幡太郎義家と名のるなど、八幡神を篤く信仰しました。その後も源氏の守護神として長く信仰され、現在でも八幡宮が各地に多く見られます。八幡様の祭りに荒れるものが多いのは、戦いの守護神としての意味が込められているからなのでしょうか。
通法寺は河内源氏の霊を弔う菩提寺として建てられたとされていますが、「兵どもが夢のあと」の感じが強く、釣鐘のない鐘楼が胸を打ちました。
秋の暮釣鐘どこか通法寺
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「河内飛鳥」C
2004年1月号
謎の五右衛門石
「ごえもん」といえば、そうあの天下の大泥棒・石川五右衛門のことです。史跡といえば、天皇やその時代の支配階級の人たちがほとんどになるのですが、たまには教科書に載らないものもいいのでは。
「伝説の河内」という本によると、「南河内郡磯長(しなが)村大字葉室に五右衛門松、釜戸塚なるものがあり、釜戸塚は五右衛門の墓だとも住家だとも伝える」とあります。そこで、さらに人名辞典などを調べてみると、五右衛門は実在は確からしいのですが、江戸時代に歌舞伎や浄瑠璃の材料として取り入れられ、どんどん空想が広がっていったようです。ここでは、多くの伝説の中から一例を紹介しておきます。
生年不詳、文禄3年8月23日(1594年10月7日)安土桃山時代に京都三条河原で釜茹でにされた盗賊。遠州・浜松の大野師泰という大名の忠臣・真田蔵之進が、悪臣に家督を奪われた若者をかくまって、お家再興に腐心するための世をしのぶ変名だとし、河内石川にひそみ、心ならずも主従妻子を養うため盗賊になったのだそうです。
ドジを踏んだ五右衛門が腹立ちまぎれにゲンコツで石を殴りつけ、それで気持ちが落ち着いたので、タバコを一服吸い、キセルを石に打ちつけました。石にその跡がくっきりと残り、やがて謎の五右衛門石となったのだそうです。

これが噂の五右衛門石 |
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「河内飛鳥」D
2004年3月号
河内飛鳥の旧家
取材をかねて河内飛鳥を歩いていると、まだまだ多くの旧家が残り、竹内街道も昔の面影を今に伝えています。日本の伝統的な旧家として切手にもなった大和棟造りの家が、ここ河内飛鳥にもあります。
大和棟ー藁葺き屋根の両妻を瓦葺きとし、さらに一段低く暖勾配の屋根を設けた独特の建築様式、とあるのですが、漢字は難しいし、意味不明の専門用語も登場してくると、うんざりしてしまいそうです。が、何となく大和棟はこんな感じとつかめば、専門用語は必要ありません。より深く知る段階で覚えればいいことなので、あまり気にせずに見物してみましょう。
竹内街道沿いにある旧山本家は江戸末期の建築とされ、2002年には太子町の所有となりました。この付近から竹内街道を東に向かって歩いて行くと、昔の旅人のような気分になります。しばらく歩くと竹内街道歴史資料館があるので、見学してみるのもいいでしょう。
資料館のすぐ近くには駅の道「近つ飛鳥の里・太子」もあり、こちらも楽しみです。街道に残る地蔵尊に歴史の長さを感じてみるのもいいし、人それぞれの心を連れて歩けるのが河内飛鳥です。
どこまでも飛鳥をつつみ鰯雲 |
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「河内飛鳥」E
2004年5月号
羽曳野市飛鳥
奈良県の明日香村では、天武天皇の「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)」(672〜694年)の正殿とみられる遺構が発掘されました。キトラ古墳の壁画など話題も多く、古代の姿が少しずつでも見えてきた気がします。
一方、河内地方に現在も地名として飛鳥が残されており、多くの史跡があることを忘れてはなりません。
近つ飛鳥は、もと「安宿」と書き、正式には「あすかべ」と呼びました。古代には朝鮮から渡来した百済系の飛鳥戸(あすかべ)一族が居住したとされ、飛鳥戸神社は建設当時、百済の混伎王(こんきおう)と祀っていました。現在は地元の産土神(うぶすな)としてひっそりとしていますが、名神大社としてかなりの地位があったと推定されています。
本格的な発掘調査を行えば、大規模な遺構などが見つかる可能性も秘めていろのではないでしょうか。
古代最大の豪族であった蘇我氏と血縁関係にあった天皇の陵墓が、河内飛鳥地方に集中してあり、飛鳥戸一族がどのような役割を果たしていたかについては、まだまだ謎の部分が多いようです。飛鳥戸神社からぶどう畑を進んでいくと、丘の上に切石を組合わせた立派な石室を持つ観音塚古墳があります。
初夏の風古代は遠くなお遠く
謎を訪ねてまた飛鳥
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| 観音塚の石室 |
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