近くへ行きたい

                            松原市上田/高野 剛さん
「紀州街道南へ」@
                                                  2005年11月号
おいとしぼし社

 今回から「紀州街道南へ」を始めることにしました。堺の町は古代からの街道の集合地点でもあり、長尾街道、竹内街道など多くの街道がありました。現在も史跡として街道そのものが残されており、紀州街道もそのひとつです。紀州街道は、江戸時代に紀州徳川家の参勤交代路として整備された歴史を持ち、現在も住吉大社から堺の宿院頓宮への夏祭渡御は、紀州街道を進みます。紀州街道は住吉大社の前から大阪の都心部へ向うのですが、ここでは南へ向うことにします。
 住吉大社は正月になると、どこからこんなに人が集まってくるのかと思うほどの人出になるのですが、普段は市内にありながらも、落ち着いた雰囲気を残しています。案内板を見ていると、「おいとしぼし社」なるものが気になり、行ってみると、石が置いてあります。何なのでしょうか・・・。後日図書館で調べてみると、ありました。「お愛し星」と書き、その昔隕石が落下し、それを神体としたのが始まりだとか。ずいぶん原始的な占いですが、この石を持ち上げて、重く感じるか、軽いかで吉凶を知るそうです。試しにまず石を軽くなで、願いを込めてそっと持ち上げてみると、少し重い感じだったので、やや凶ということなのでしょう。
 万葉の頃には石占いがすでにあったそうで、歴史は千年くらいあるらしく、「重軽石」と呼ばれているそうです。訪れた際は、ぜひ占ってみてください。
     
               
                  おいとしぼし社重軽石

「紀州街道南へ」A
                                                  2006年 1月号
(あられ)松原

 住吉大社から大鳥居をぬけ、ちんちん電車(阪堺線)の走る道路を南へ進んでいくと、阪堺線と分かれます。紀州街道はそのまま直進となります。国道479号(長居公園通)と交わる付近には、小町茶屋や難波(なにわ)屋と呼ばれる茶屋があったそうです。現在は案内板があるのみで何もみあたらないのが残念ですが、心でイメージしてみましょう。最近は映像技術が進み、その姿を再現してくれますが、ふと気がつくと自分で思い描く世界を失っていることに気がつきます。リアルな映像も真実ではなく、想像であることを思い出し、自分なりに想像してみることが、史跡めぐりの楽しみであり、「近くへ行きたい」の目的です。
 夢とは、与えられるものではなく、自分から積極的に作り出すもの。どんな映像よりも、リアルで真実がすぐそこにあることの自由こそが、贅沢な時間ではないでしょうか。
 しばらく歩くと霰松原と呼ばれる場所に着きます。ここは、江戸時代中期まで白砂青松の海岸線だったそうで、松風が霧を吹きつけるように響いたので、この名がついたそうです。この付近は保存会の人たちの努力もあり、比較的景観も残り、案内板もあちこちに見られるので、ゆっくりと探しながら歩いてみることをお勧めします。
     
               
                      あられ松原付近

「紀州街道南へ」B
                                                  2006年 3月号
大和橋

 夏祭渡御(とぎょ)は大和橋の上で、大阪から堺へ神体が渡され宿院頓宮(しゅくいんとんぐう)へと向かうので、たいへん重要な場所になっています。
 歴史に詳しい人ならご存知だと思いますが、今の大和川は、1704年(宝永元)に付け替えられたものです。昔は、柏原市付近から北へ向かって流れ、いく筋にも分かれていたため、大雨が降れば氾濫を繰り返すこととなり、人々を苦しみ続けてきました。そこで、流れを真っ直ぐとし、大阪湾へ流す大工事が始まります。この工事、8ヶ月で完成されたそうで、驚異のスピード完成だったと伝えられています。まさに、プロジェクトX。現在の私たちが一番進んでいると考えてしまいがちですが、歴史をたどってみると、とんでもないことがあるのです。大型の機械など無い時代に、そのほとんどを人力でやってしまったのは、災害を防ぎたい人々の情熱が強い結束を生んだからではないでしょうか。封建時代のことなので、幕府の力で奴隷的な労働をさせたからやれたと考えられなくもありませんが、ある時、情熱は奇跡をおこす。それを信じたいと思います。
 堺の港は、付け替えた大和川の流す土砂に埋まり、港としての機能を失ってしまう皮肉もありました。
 いよいよ、紀州街道は堺へと入ります。
     
          
                    8月1日の渡御祭の行列

「紀州街道南へ」C
                                                  2006年 5月号
堺の鉄砲に思う  《前編》

 堺まつりのパレードへ行くと、激しい音に驚きと歓声があがるものです。が、鉄砲は人殺し、殺戮の道具であると言われ、日本の歴史的に見て正しい認識がなされていない気がします。
 裁判員制度においては、悪いこともしていないのに裁判所から強制的に呼び出されることになるので、嫌がっている人も多いそうです。けれど、専門家だけが独占してきた日本の司法の制度に民が入ることは、主権者たるわれわれの権利ですから堂々と議論しましょう。
 歴史についても、学生時代の教科書、大人になればそれなりの専門書や先生の講義など、どちらかというと司法と同じように権威にまかせてきたようです。たとえ素人であったとしても、裁判員制度のように自分たちで考察することは、日本の主権者である私たちにとって重要なことのはずです。
 姫路城を見学すると、城の中から外へ向けて鉄砲で敵を撃つ穴があり、ここから狙っていたとか、ガイドの女性が案内していることがあります。城とは要塞であり、殺戮のための工夫がいっぱいです。でも、国宝。天皇陵とされる大王(おおきみ)の墓も、発掘により多くの鎧や冑(よろいやかぶと)、鉄の武器がざくざく出てきます。殺戮を繰り返すことによって実権を握った支配者であったことは明らかですが、天皇陵として国宝以上の特別地域とされています。
 鉄砲も見方を変えれば、各地の武将が殺戮を繰り返したものの、戦国の世の戦術を変え、300年続く泰平の江戸への足がかりとなりました。同じ殺戮であったものの遺産が、国宝に指定されたり宮内庁の管理下に置かれているのに、鉄砲の悪いイメージはなぜなのでしょう。
 史跡案内は次回とし、今回は主権者である読者の皆様の正直な声をおうかがいしたいと思います。
 本欄についてご意見をお聞かせください。ぜひご一緒に「近くへ行きたい」に参加しましょう。

「紀州街道南へ」D
                                                  2006年 7月号
堺の鉄砲に思う  《後編》

 前編での意見募集は趣旨が分かりずらかったようで、意見はありませんでした。が、堺の鉄砲は私個人の思い込みであったとしてもすばらしい町の財産だと思います。
 1543(天文12)年種子島に伝わった鉄砲は、1657年には堺の町で年間4000挺も製造されていた記録が残されています。その頃の日本は治安は乱れ、各地に武将がいた戦国の世でしたから、その世を治めるには、鉄砲という武器が必要だったのです。最近治安を揺るがす事件が多発していますが、その程度の乱れではなく、焼き討ちや襲撃があたりまえだった時代。日本にもそんな時代がありました。
 堺の町は空襲でほとんど焼けてしまいましたが、鉄砲鍛冶屋敷として知られる井上家住宅(内部非公開)のある旅籠町付近は戦火をまぬがれ、鍛冶町の面影を伝えています。高須神社は鍛冶職人の守り神でした。鉄砲鍛冶射的場跡は石碑が建てられています。
 鉄砲鍛冶屋敷は、平成16年には堺市の文化財に指定されましたし、この付近は堺市の名所観光コースにもなっていますから、迷うことなく安心して歩けるのが嬉しいです。
 鉄砲は殺戮の道具であったとしても、それを必要とした時代が確かにあったことは、美化することなく、平和を考える上でも大切な真実です。史跡を巡りながら、これからこの国はどこへ向かうのか・・・。などを考えて歩いている自分の姿がありました。
         
                    高須神社とチンチン電車

「紀州街道南へ」E
                                                  2006年 9月号
見えないものが見える
       
〜少林寺庭園の宇宙

 紀州街道は、住吉大社から夏の渡御祭で御輿がやってくる、住吉大社のお旅所(御輿を仮に奉安する場所)宿院頓宮へ。
宿院は祭りの時以外、ウサギの像が跳ねる、人々の憩いの場所になっています。
 ところで、最近は絵手紙や写真などで芸術やを楽しむ人も増えていますが、技法や技巧にばかり捕われると、芸術とは物を綺麗に美しく見せることと思われがちです。ピカソの絵画のように、ただ石が置いてあるだけに見えるお寺の庭園などは、美しくはあってもその意味がわからない代表のような存在なのではないでしょうか。ウサギの像のような「具象」なら理解しやすいけれど、意味不明な「抽象」は理解しにくい・・・。
 宿院頓宮から南へ約400m、阪堺線の寺地町駅から徒歩5分のところにあるのが少林寺。元徳2年(1381)開山で、狂言や歌舞伎の関係者が「釣狐」を上演する際に参詣し、技芸の上達と上演の成功を祈願する名刹です。
 ここにある庭園に、私は永遠に渦巻く宇宙を見ました。見るということには、目で見ることだけでなく、心で見るという意味もあると思います。それを目に見える形にしたものが、抽象表現のひとつのあり方です。 芸術は、専門の先生に教えてもらわなくても、夢見る心があれば学べるものだと思うのです。
 みなさんは少林寺の庭園に、何を“見る”のでしょうか。

              
                        少林寺の庭園


「紀州街道南へ」F
                                                  2006年11月号
浜寺公園の消火栓

 紀州街道を住吉大社から南へ進んでみると、今はそのほとんどは町中であるのですが、昔は浜辺だったことに気がつきます。浜寺も美しい浜で海水浴場だったなんて信じられないものです。
 浜寺公園駅の駅舎は、明治40年に建てられたもので、明治のハイカラ建築を今に伝えています。国の登録文化財にもなっていますが、とっくりのように広がった柱は、醜悪で美しいとは思えないという意見もあります。国の指定であるから美しいという先入観で見るのではなく、あなた自身の心で見つめてみましょう。芸術のよさは多数決で決まるものではなく、自分独自の判断で、これがいいのだと認識することです。
 駅舎から昔は浜辺に向ったはずの通りを歩いてみると、チンチン電車の駅に着きます。ここが終点で始発なので、いろいろなチンチン電車がやってきて結構楽しめます。
 道路(紀州街道)を渡り、公園内に入ってみると、松林は昔のままの浜寺を今に伝えているかのように、広がっています。あたりを得意のうろうろ歩きしてみると、消火栓らしきものがありました。建物もないのにどうしてこんなものがと不思議に思っていると、小さな案内板を見つけました。それによると、明治の頃には、公園にも多くの別荘が建っており、それらを火災から守るために設置されたもので、アメリカのROOK社製だそうです。
 最近、泉佐野の方などに行くと、埋め立てた場所にまた浜辺を人工的に造ってみたりで、人間の勝手さに驚く限りです。浜寺公園のバラ園から石油コンビナートを見つめ、これでよかったのかなと思えることがあります。先進国を気取ってはいるが、自然とともに生き、工業や産業の発展とは無関係な国々を発展途上と決めつけるのは、どこか間違っています。
 美しい浜こそが財産で守るべきだったと。

                
                         消火栓

「紀州街道南へ」G
                                                  2007年 1月号
高師浜駅(高石市)

 紀州街道は今回で最後になります。最後に取り上げるのは、以前にも紹介したことがあったような気がしますが(ずいぶん昔に)、そういえば何となく覚えていました。
  
    おとにきく たかしのはまの あだなみは
    かけじやそでの ぬれもこそすれ         (ゆうしないしんのうけのきい)

 評判の高い高師の浜に寄せるむやみにたちさわぐ波ではないが、そのような浮気なあなたには私は思いをかけないつもりですよ。きっとあとで捨てられて、涙で袖が濡れると困りますから。(かるたの説明参照)

 小倉百人一首の72番目の短歌です。子どもの頃暗記させられた方も多いと思いますが、微妙な女心で男の痛いところをチクリと刺すもので、子どもにはなかなか理解しがたいものだったようです。
 南海本線羽衣駅から高師浜線に乗り、1.5km、もう終着の高師浜駅に着きました。1919年に開通したそうで、夏の海水浴客でにぎわった駅も、今はひっそりとしています。白砂に千鳥が舞っているような駅舎のステンドグラスが、かつての浜を伝えているかのようです。
 駅を出て浜のあったほうへ向かうと、昔の海岸の護岸のコンクリートらしきものがそのまま残されていました。浜には建物が並び、道路があって、車がビュンビュン。どうやら高師浜の“あだなみ”は、完璧に失恋してしまったようで、寄せては返す恋心を受け止めてはくれないようです。
 しばらく護岸を歩いて、高石神社に向かうことにしました。わずかに残る松が浜の様子を伝えているかのようでもあり、そうではなく、残ったのは短歌だけになったのかもしれません。
 次回からは、予告なしにあなたの町へ行くかもしれません。ありがとうございました。

              
                         高師浜駅