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      近くへ行きたい







             松原市上田/高野 剛さん


                                                  2010年 7月号

叡福寺
(南河内郡太子町)

 叡福寺は平安時代の法隆寺や四天王寺とともに聖徳太子信仰の中心として栄え、八尾市の「下の太子」大聖勝軍寺と羽曳野市の「中の太子」野中寺と並んで、「上の太子」として河内の三太子と称され、現在でも多くの人の信仰を集めています。
 叡福寺の創建は明らかではありませんが、昔は現在よりはるかに広大な寺域を有し、1574(天正2)年に織田信長により全焼しましたが、豊臣秀頼によって再建され、現在に至っています。
 広い境内を歩いていくと、正面に聖徳太子の陵墓があります。これは東西52m、南北42m、高さ10mの円墳で、東西に少し長い楕円状をしています。
 この地は高僧の空海も訪れたとされ、古来から聖地として守られてきました。多宝塔は国の重要文化財で、1652年に江戸の信徒によって再建されたものだそうです。
 この付近は日本の伝統的な木造の建物が多く残されていますので、境内だけでなく、ぶらりと町を歩いてみるのも楽しいでしょう。



                                                  2010年 5月号

                            よさのあきこ
主人公は君だ! 戦う女「与謝野晶子」

ポルタス堺・与謝野晶子像
(堺市堺区)
 与謝野晶子といえば堺出身の偉大な文学者なのですが、堺の町に多くある像や歌碑はすべて、晶子の死後(1942年)、晶子の社会的な評価が上るに従って、都合よく堺の偉人扱いにしてしまったような思いがしてなりません。
 晶子が生まれたのは1878年(明治11年)で、現在の堺区甲斐町(かいちょう)付近にあった和菓子屋「駿河屋(するがや)」の三女でした。創作活動を始めた明治時代は、女性に選挙権もなく、家の家督を継ぐのは男と決まっており、女性は男の後ろをつつましく歩くべきという社会でした。女性が著作者であり主人公になることは許されず、反戦を訴えるような作品をつくり、恋愛感情を表に出して、東京の男のもとへ走った晶子に、石碑が建てられようはずもなかったのです。
 江戸時代の封建社会から抜け出し、明治になって許されたはずの自由も、女性には無縁のものでした。晶子の武器はペンで、決して権力にへつらうことはしませんでした。その心意気、勇気を学びたいものです。



                                                  2010年 3月号

                            さなだゆきむら
主人公は君だ! 戦う男「真田幸村」

安居神社・真田幸村像
(大阪市天王寺区)
 最近はカメラにしてもデジタル化が進み、「その場ですぐ見て、良くなければ撮り直せばいい」そんな安易な雰囲気が漂い、一発勝負を避け、損得を計算して失敗しない人生を無難に生きたいなどと思う人が増えた気がします。不況の今だからこそ、新しいことを始めるチャンスなのに、誰かがやってうまくいくのを見てから走り出す大志のない心では、成功などあろうはずがない。社会は先んずれば制すです
 真田幸村は1615年の大坂夏の陣で、豊臣軍の武将として戦い、徳川軍に敗れ去った「敗者」であるのですが、絶対多数で勝利確実とされた徳川軍を最後まで苦しめました。茶臼山に本陣を置いていた家康の首をもう少しで落とすところまで攻めに攻め、休んでいるところを討ち取られて戦死した場所が安居神社の地と伝えられています。近頃、銅像が建立されて密かな名所になっていますので、近くの一心寺などと併せて見学してみましょう。
 幸村の兄が徳川方にいて、家督は安泰だったので、武将らしい死を選んだとか言われていますが、徳川の説得にも応じず、わが正義を貫き、損得のちまちましたケチくさい生き方より徳を選んだのだと私は思い、心の励みにしています。
 へたくそでも私のスケッチは、鉛筆で下書きしない、幸村流サインペン一発書き。やり直しなど生(なま)の人生にはないと決めて決断するからこそ勇気が湧くのです。


真田幸村像



                                                  2010年 1月号

主人公は君だ! 戦う人であれ

堺市役所21階展望ロビー
(堺市堺区南瓦町)
 最近は不況だ、デフレだと社会の経済状況はあまりよくありませんが、どんなときも主人公は自分自身であり社会情勢ではありません。前向きに働いていたのに派遣切りにあったりして、暴れたくなる人もいるだろうし、酒でも飲まないとやってられない気分の日もあるでしょうが、怒りで傷つくのは自分自身ですから、まず自分の感情をコントロールすることが、自分が主人公の条件。一時の感情の爆発でやがて訪れるチャンスを逃がさない人こそ、本当の主人公です。
 堺区の区民まつりに行ったついでに市役所の展望ロビーに上がってみると、これがなかなかのものでした。「近くへ行きたい」で紹介してきた場所のすべてが見えるし、遠くは淡路島まで望めます。近くには仁徳陵やベルマージュのビル。まさに我こそ主人公の大志を持った気分にさせてくれます。走る電車は模型だし、ビルもちっぽけで、人の姿は見えません。だから社会に脅えてはならないし、権威もたかがしれています。人間は生まれたときに体重を計られ、評価を受けてからずっと選択し、選択され続けることの連続。耐えられない日もあります。そんなときはうずくまらずに「大丈夫」。なぜなら、人はいつだって戦争という悲劇を生き抜いてきたからです。自殺などせずに、立ち上がって戦ってきたからです。


市役所21階ロビー風景


                                                  2009年 11月号

古代くんのベラボーな古墳探検E
さよなら古代くん
四天王寺(大阪市天王寺区)

 四天王寺は寺で「古代くん」とは関係ないと思われるかもしれませんが、四天王寺は荒陵山敬田院(こうりょうざんきょうでんいん)と号します。4〜6世紀に権勢を誇った大王たちも、6世紀末には力をなくしていきます。理由は民衆の暮らしを考えることを忘れ巨大古墳造りに人びとを奴隷のように扱ったからで、その頃伝わってきたまったく新しい異国の思想、苦しみからの解脱を説く仏教の広まりが、大王の権威を打ち倒したなどと説明されています。
 しかし、歴史の真実などというものは、後世のおとぎ話かもしれません。前回、茶臼山古墳を紹介しましたが、大王たちの墓で象徴でもあった巨大古墳も6世紀末には荒陵となり、誰の墓なのかまったく不明で、四天王寺のあった場所も古代の古墳だった可能性を秘めています。古代の権威の象徴であったものの上に、新しい時代の象徴である塔が出現したのです。
 四天王寺の現在の伽藍配置は、発掘調査などによってわかったことを再現したもので、荒陵山の上に立つ塔は古代の巨大古墳、権威の終焉であり、新しい国家の始まりを告げていました。宝物館の前に茶臼山古墳から出土したとされる、古墳時代の棺である巨大な長持形石棺の蓋が置かれています。
 日本の政府も変化しましたし「諸行無常」。これでよしの絶対などありえない。それが変わることのない真実で、歴史とは暗記ではなく変化です。


四天王寺・秋彼岸風景


                                                  2009年 9月号

古代くんのベラボーな古墳探検D
古代くんの「勇気のメッセージ」
いたすけ古墳(堺市北区百舌鳥本町)

 古墳をスケッチしていると、「古墳って大きな山だな」と思えます。ところが1955年(昭和30年)に、この山を削り取る開発が進み、木々が切り払われ、堀にはコンクリートの橋がつけられることになったのですが、破壊寸前のとき、勇気を出して史跡の保護を訴えた市民グループがあり、何とか保護されることになりました。今は朽ち果てているコンクリートの橋は、その勇気の印として残されました。戦後の高度成長、開発優先の時風の中、逆行するかのような行動は、理解されにくかったでしょうし、嫌がらせや中傷も多くあったと思います。ですが、そのおかげで現在は国の史跡に指定され、狸の棲む古墳として有名になったこともあります。
 日本古来からの伝統で、山そのものが神体、全国に八百万(やおよろず)の神々がおられる信仰が、古代の古墳を巨大化させた独自の考えを持ちました。大きな山をつくり権威を見せつけたかったのではないかと、1人で推定しています。この伝統は今も残り、正月になると初詣で多くの人びとが神社に寺に出かけ、両方行くことに何の疑問もなく、日常で当たり前。多くの神仏、八百万に願掛けするのが、いいこととされています。必ず複数であって、「あらゆる限定は否定」。家の荷物が複数で八百万あって多すぎるのは、引越しのときに困り果てましたが、心の引き出しは、どれだけ多くても困りません。「柔よく剛を制す」。1つにこだわることは心を偏狭にして、狭い世界に自分で自分を閉じ込めます。観音さんは、観自在菩薩です。心を柔軟にフレキシブルに自在に展開させてこその「近くへ行きたい」です。どんなに遠くへ旅しても、心が自在でないなら家の中より狭い。史跡巡りが主体ですが、写真もスケッチも植物も鳥もあっていい。コンセプトは八百万、「夢と飛躍」です。





                                                  2009年 7月号

古代くんのベラボーな古墳探検C
  天王寺公園の古代くん
茶臼山古墳(大阪市天王寺公園内)

 天王寺公園は今では有料になってしまいましたが、茶臼山といえば遊び場だったという人もいることでしょう。茶臼山は実は茶臼山古墳で、5世紀の頃の大古墳です。大坂城が焼け落ちた夏の陣では、家康が本陣を構えた場所とも伝えられています。帝塚山古墳も古代の古墳であり、世界遺産候補地からは外れますが、市内にも古代の古墳が現存していますので、ぜひ見学してみましょう。
 公園の入園料、150円を払って、美術館前を通り茶臼山へ通じる橋を渡ると、大阪の風景、通天閣がよく見えたので、まずそれをスケッチしてみました。そのスケッチを参考に埴輪を加えて、心の印象を表現したのが、今回のイラストです。
 心の印象は、見たまま、写実の写真だけでは表現できないので、最近は絵も両方やるようになりました。芸術は資格ではないので、個人の自由に楽しめばいいと、私は思います。写したり、描いたり、その時の自分の心を大切にしましょう。
 描いていると、写真を撮っているときよりも多くの人が話しかけてきて、「園内にある慶沢園(けいたくえん)はモデルの撮影もよくやっていますよ」と、穴場を教えていただきました。茶臼山を見学して歴史を学んだ後は、慶沢園の庭園を散策してみましょう。時間がくれば、水が“あばれ散る”園内中央の噴水も面白いし、なかなか良い被写体になりますよ。近くだからつまらないと決めつけないで、自由自在に心を広げましょう。





                                                  2009年 5月号

古代くんのベラボーな古墳探検B
  猪突猛進古代くん
応神陵古墳(誉田御廟山古墳)

 仁徳天皇に続き応神天皇も、果たして実在したのか、実のところはよくわかっていません。古墳の築造は4世紀末から5世紀初頭と考えられていますが、この時代はまだどうやら国家として統一されておらず、天皇制も確立されていなかったようで、部族争いに勝った長が大王(おおきみ)として君臨し、大量の武器と金銀の装身具で絶大な権力を誇示するようになったようです。現地を歩いてみてもわからなかったのですが、今のコーナン付近にあったと思われる小さな古墳から、1500本の鉄矢じりなど当時はすごく貴重だった鉄の武器が大量に発掘されたこともあります。
 倭国(わこく)に文字が伝わったのが、応神朝の頃とされています。古事記や日本書紀に、古代朝鮮の百済(くだら)から王仁(わに)が伝えたと記されているのですが、古事記や日本書紀は天皇制が確立し、国家の成り立ちを示すために、大和朝廷が7世紀末から8世紀初頭にかけて編纂したもので、300年以上も昔のことをさかのぼって記載しているので、真実性はいかがなものかというのが現在の考古学的考えです。
 神話的要素の強いものなのですが、天皇を神と崇め国民を統率し軍部が暴走した結果が第2次大戦の敗北だったのでしょう。現在も天皇陵については戦時のままなので、天皇陵の名称はふさわしくない、戦争の間違いは正すべきとの声もあるし、やはり天皇は天皇、神話の昔から続いてきたものだとする考えもあります。伊勢神宮が伊勢神宮であるように、天皇陵も天皇陵であるべきか。古代の君主だから立ち入りも発掘も許可していいのか。世界遺産候補が今回見送りになったのは、そのあたりの国民感情もあると思います。ぜひ見学してじっくり考えてみませんか。





                                                  2009年 3月号

古代くんのベラボーな古墳探検A
  眠りの森の古代くん
仁徳陵古墳(大仙古墳)堺市堺区大仙町
 巨大古墳群の世界遺産候補は見送られましたが、5世紀の頃、当時の大国・中国から倭国(わこく)と呼ばれ、低俗で野蛮人扱いをされていた日本は、独創的で巨大な古墳を造ることで実力を見せつけ、公平な扱いを受けようとしていたようです。聖徳太子が中国に、日出づる国として国書を出したとされる7世紀以前の時代は、まさに逆境、倭人は野蛮人と馬鹿にされつつも、不屈の精神で必死にがんばっていたのでは、と私は思います。
 今、古墳はすっかり「眠りの森」になってしまいましたが、当時はこぶし大の石に全体が覆われ、そこに赤の埴輪。朝日を浴びて輝いていたであろう様子は白地に赤、まさに日本の国旗の色です。
 仁徳天皇といっても実在したかどうか、実はあいまいでよくわかっていません。天皇陵も古代から現代まで、大切に守られてきたわけではなく、江戸時代には古墳の内部で花見ができたという記録も残されています。大仙公園にある博物館は古墳について詳しい展示があるので、一度見学してみてください。
 当時は仁徳陵の近くまで海が来ていて、中国からの使いは船から古墳を見て、そのベラボーさに感動したのかあきれたのか、思ったほどの成果は得られなかったようです。
 次号で紹介予定の応神天皇陵、この天皇の時代に文字がもたらされました。文字といえば漢文で、日本独自のひらがなは貴族の間では長く馬鹿にされてきたように、大国・中国を学ぶこと、真似ることをヨシとした考えは古墳時代からの習慣でしょう。



                        


                                                  2009年 1月号

古代くんのベラボーな古墳探検@
 
 始まりの巨大ベラボー予告編
 高野くんの作品は、内容的に飛躍しすぎ、芸術的に甘い、意味不明、完成度がない、きれいじゃない、かわいくない、などなど馬鹿にされること数知れず…。それで、そんなふうに馬鹿にする人って、ほとんどは権威の味方だったりするもので、まとまってちまちましていることが多いのですが…。どうも21世紀になって社会が合理や理屈、論理でガチガチにまとまってしまって、理屈の陰で殺人とかオレオレ詐欺が連発していても防げない。そんな卓上の論理ならないほうがましなんて思っているころ、百舌鳥・古市古墳群が世界遺産候補入りしたことを知りました。
 あの巨大さは何なのか、超常識はずれ、どう見ても合理では理解できない、ベラボーな夢。日本で学んだ歴史が正しいとすれば、この国は他国の侵略を受けていないので、巨大古墳をつくった人びとは、ほぼ確実に私たちの先祖。きっと私たちの中には、ベラボーで不合理な遺伝子が受け継がれている。そういうベラボーさには心を向けず、学術的に古代をまとめることは不可能だと私は思います。
 巨大古墳のほとんどは、宮内庁管理で一般の立ち入りは厳しく制限され、世界遺産で一部の専門家には許されることになっても、ごく一部の人の宝物では、まったく意味がありません。今をたくましく生きる私たち自身のベラボーな夢の遺産として見てみることで、人生の希望とか勇気になればと考え、今回のへたでかわいくないキャラクター企画を実行しました。
「近くへ行きたい」でみなさんのごく近くを紹介してきましたが、今回の企画はベラボーなので、少し遠くへ行くこともあります。歴史は嫌い、古代は学術的で難しいなんて、先入観。日本人はベラボーの民である。



                                       

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