泉北高速の栂美木多駅から西に走り出した時、北側に見える小堂が桧尾行者堂です。 役(えんの)行者などの修験道や空海などの真言密教を併せもった修行のための道場ですが、現在では泉州や南河内でも珍しい存在です。 もともと桧尾には、惣福寺という真言宗の寺院がありますが、その隣接地に修験道のための行者堂が建てられ、明治中期に現在の建物となりました。そして吉野から桜の苗を移植し、明治大正期の桧尾行者堂は桜の名所として有名でした。その桜も今は切られ、盆踊りだけが今も8月に境内でおこなわれています。 さて、問題はここからなのですが、この行者堂の靴脱ぎ石や燈籠に、タコ焼き器のように穴がいっぱい掘られているのです。 実は、江戸時代から続く泉州の安産信仰の一つで、妊娠がわかると「母子ともに無事でありますように」との願いを込めて、丸く美しい穴を掘り続けたのです。今のような医療の発達していなかった頃には、安産は一途にお祈りすることしかなかったのです。そんな必死の祈りが、石に穴をうがちタコ焼き状態を生み出し、それが今も残っているのです。 修験道や山岳信仰、そして泉州の安産信仰を考える上でも、桧尾行者堂は貴重な存在です。なお、最近修復された堺旧市内の清学院も、江戸時代に修験者の道場として建立され、幕末に寺小屋となり、河口慧海も学んだ場所です。 |  桧尾行者堂

西行といえば、『新古今和歌集』を代表する歌人として知られています。それも、「桜の大好きな歌人」として知られています。 ところが、この西行が亡くなって眠っているのが、河南町の弘川寺であり、中世から近世にかけての文学者にとっては最大の憧れの文学者だったことは、案外知られていません。 たとえば、『奥の細道』などで有名な松尾芭蕉は、東北はもちろん旅をしたほとんどが西行の足跡を追ってのことでした。吉野の奥の西行庵も芭蕉は訪れ、西行庵そばの苔清水でも芭蕉は句を詠んでいます。 なぜ、それほど西行が中世から近世にかけて最大の憧れの人となりえたのでしょうか。実は、来年の大河ドラマの主人公の平清盛と若い頃には同僚として北面の武士をつとめながら、清盛は権力闘争の真っただ中に入っていき、片や西行は出家して、吉野や伊勢で自然と共に人生を送り、その和歌は『新古今』に94首(一位)も載るなど、生き方も文学作品も最高に評価されたからでした。 『百人一首』には、「嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな」が載っていますが、桜好きだった西行を物語る和歌が「願はくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ」で、その願い通り、桜の頃に亡くなったのが、河内の弘川寺だったのです。 弘川寺は、天智天皇の頃、役行者によって開かれたと伝わっていますが、西行の像や資料もありますし、丘の上には西行墳もあります。桜の時季や藤の時季に訪れる人が多いですが、紅葉の頃も味のある美しい寺院です。平清盛ゆかりの西行が眠っている静かな美しい弘川寺は、ぜひおすすめです。 |  弘川寺

1945年(昭和20年)7月10日未明、堺の旧市内は、アメリカ空軍による大空襲を受けました。 爆撃に加わった米軍機は百機以上で、被害を受けた家は約1万5千軒でした。とくに現在の堺駅(南海本線)あたりは集中的に攻撃を受けました。 そんな中でも、旧龍神駅のそばで、南海本線と阪堺軌道大浜線とが交差している所がありました。現在のフェニックス通りのすぐ南側で、住吉橋町から大浜北町にかけての辺りでした。 空襲となり、電車も止まり、電車の乗客や近所の人たちが、焼夷弾から身を守ろうと、線路下のガードに殺到しました。コンクリートで固められたガード下こそ安心だろうと、多くの人が殺到したものですから、中央付近に居た赤子や老人は圧死となり、ガード下に入りきれなかった外側の人たちは焼死となりました。また、ガードが煙突の役目をして、炎と煙がガードを吹き抜けたため、ガード周辺だけで三百人もの死者が出たと言われています。 その地での、多くの無念の死をいたむためガード下で供養が毎年おこなわれるようになり、やがて地元の有志によって戦災無縁地蔵堂が造られ、何体もの地蔵像が安置されるようになりました。 堺が不死鳥のごとくによみがえれ!との願いを込めて造られたフェニックス通りのすぐ南側に、ひっそりと戦災無縁地蔵尊がたたずんでいます。市民の多くは、その存在すら知らないようですが、ご近所の有志の方々は、今も毎日、無縁地蔵尊の掃除と、訪ねて来た方に7月10日の大空襲の語り伝えをされています。ぜひ、この夏休みに訪れてみて下さい。 |  戦災無縁地蔵尊

堺の町の大半は、昭和20年7月10日の大空襲で焼けてしまいましたが、北部の一部分が焼け残りました。そんな焼け残った民家の中には、鉄砲鍛冶屋敷や線香店、刃物店などがあります。 そして今、焼け残った民家を中心に、堺七町(さかいななまち)と銘打った町づくりがおこなわれています。民家を買い取ってミニギャラリーとして、お茶などの接待までしてくれる鳳翔館や、日替わり店長のいるこだわり喫茶店の「ろおじ」、線香店の薫主堂、火縄銃など展示解説の堺鉄砲館など、数多くの味のある店や建物が、堺七町に集中しています。 そんな中で、常に多くの客を集めている刃物店が、水野鍛錬所。日本刀はもちろん、奈良の有名寺院の魔除け鎌の製作もおこなってきた老舗ですが、親子三代そろって、昔ながらの刃物作りも公開してくれることでも有名です。そして現在、水野鍛錬所の前には与謝野晶子の歌碑が建てられています。それも歌の中に「さかいななまち」の言葉が入っています。 筆者(桧本)のプライベートな見方かも知れませんが、水野鍛錬所の水野さんも、鳳翔館の柏木さんも本当に味のある人で、堺の町の良さを「地に足のついた活動」で支えて下さっている人々です。堺にもこんな人がいるのかーーと、今さらながら感動させてくれる水野さんや柏木さんにも、ぜひ皆さまお会いしてください。鳳翔館は綾の町交差点(西側)にあり、水野鍛錬所はその北の堺区桜之町西1−1−27です。 | 

府下一の巨木?岡中の大楠 有名な泉南の藤の南方に 2011年 4月号 | 4月末になると、梶本家の有名な「泉南の藤」を見に行かれる人が多いと思われます。JR阪和線の「和泉砂川」駅で下車すると、「藤まつり」という旗が立ち並んでいますので、道を尋ねることもなく、梶本邸に到着できます。 一本の藤から3万房もの花を咲かせることになったのには歴史があります。元校長先生だった梶本氏(故人)が、一本の藤を庭に植えて手入れをしたところ、どんどん花を咲かせるようになりました。その頃、梶本氏はガンにかかり、「来年も花を見たい」と一層手入れをするようになりました。見に訪れる人が増えてくると、「よう来て下さった」と餅をついて食べてもらうようになりました。人気が人気を呼び、花房も一万から二万、三万と増えた頃、梶本氏はあの世に旅だたれました。 今その意志を継いで、町内会や保存会の方がたが藤まつりを続けています。この梶本邸の前の道が旧熊野街道であり、近くには元陣屋邸も存在します。 この熊野街道を南に行くと、一ノ瀬王子跡もありますし、庭の美しい林昌寺もありますが、その南の岡中集落の中には、写真のような府下一とも言える巨木「岡中の大楠」があります。せっかく藤を見に行くのなら、ぜひ岡中の大楠ともご対面を! |  岡中の大楠

JR阪和線「津久野駅」の北側に少し入った所に、万年橋という橋が立っています。道路上にあるものの、下に川が流れている訳でもなく、むしろ邪魔になる存在としての橋なのです。 何故、そんなものが撤去されずに残されているのでしょうか。 実は、昔、この万年橋の下を石津川が流れていたのです。津久野の団地や津久野駅が出来た昭和30年頃に、石津川がつけ替えられ、万年橋の下の川が消えてしまったのです。川が無い橋など無用なのですが、この万年橋には津久野地域の人たちの思いがいっぱい込められていたために、今も残されています。 その思いとは、水と闘ったこの地域の人たちの思いです。上神谷や美木多の谷の水を集めた石津川は、毛穴や津久野で平野に出て、豪雨の時にはいつも氾濫を起こしていました。そのたびに橋も流失していました。そこで、「今度こそ、この橋が千年も万年も永もちしますように!」との思いを込めて架けたのが万年橋でした。だから石津川がつけ替えられた万年橋が、今も道路の上に立っているのです。 なお、わかりやすいように津久野という地名を使いましたが、本当は古代神話ゆかりの鋸野が元の地名です。阪和線の駅名をわかりやすい表示にするために、戦後になって津久野と表記されるようになりました。 |
 万年橋


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